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2021.08.08
スポーツ・芸術・文化 社会を変える!

異議あり東京五輪「スポーツの力が歪められた」日本ウェルネススポーツ大学・佐伯年詩雄教授の言葉

共同通信 視標「東京五輪閉幕」

日本ウェルネススポーツ大学教授佐伯年詩雄教授

「選手は社会に敏感であれ 政治の道具になった五輪」

最悪の新型コロナウイルス禍の中で、国論を二分した人類の祭典が幕を閉じた。8年の歳月と3兆円とも言われる巨費を使った巨大イベントだ。パンデミック(世界的大流行)下、この五輪は何をもたらしたのか。「やってよかった/悪かった」と単純な結果を避け、「五輪の理念」に基づいて意味を考える。

 国立競技場建設に始まり開会式演出者の罷免に至るまでトラブルが続き、「呪われた五輪」とも言われる。しかしこうした事態を招いたのは、コロナを含めて、決して運が悪かっただけではない。

真夏の猛暑を「最適の気候」と偽った招致に始まり、コンパクト五輪、復興五輪、コロナに打ち勝った証、安心安全と猫の目のようなスローガンの変化は、世紀の事業に向かう人々が共有すべき理念とビジョンの不在を意味し、国論の二分を生み出す元凶にもなった。パンデミック中に開催すべき理由の不在こそ、利害打算の思惑を超えて、開催を正当化する根拠を示せなかったことを意味する。

 競技では、開催反対派、延期派を含めて、「金メダルすごい」「惜しかったもう一歩」という喜びの爆発、無念の悲しみへの共感があった。しかし、メディアが”感動“を押し売りするだけなら、スポーツそのものが一時の気晴らしに変わり、結果的にアスリートの自己満足に終わってしまう。

 東日本大震災直後の日本のスポーツが見せたのは、当時プロ野球楽天の嶋選手の言葉に示されたように、競技を復興の力にしようとするアスリートの決意に支えられたパフォーマンスだった。

 五輪が特別であるのは、これと同じ文脈で、アスリートが全力を尽くして挑戦する姿が、人権と正義、平和と友好という理念の実現に貢献する可能性を持つからである。東京五輪に当てはめれば、スポーツがコロナ患者や医療従事者の希望と勇気を支えることであろう。

 その覚悟があったのか、筆者は問いたい。アスリートはもっと社会と自らがスポーツできる環境に敏感であってほしい。

 残念ながら、東京五輪は、大会中に一層の感染拡大をもたらした政治の道具になった。競技もアスリートも、五輪を巡る政治と経済のゲームに利用された。「やってしまえばみんな喜び、日の丸で盛り上がる」との為政者の考えが伝わる。古代ローマの「パンとサーカス」に示された現実逃避を先導する愚民政策と同じではないか。

 モスクワ五輪ボイコットは「参加させない」政治利用であったが、今大会は「参加させる」政治利用である。リオデジャネイロ大会閉会式の「マリオ」役での登場から強行開催に至るまで、リードし、シナリオを描いてきたのは政治であった。このような政治のスポーツ利用がもくろみ通りに成功するか否かは、来る総選挙で示されるだろう。つまり我々もまた問われているのである。

 この五輪に負のレガシー(遺産)は多いが、それを見つめ、熟考することで未来に向けた創造的なアイディアやヒントが見いだされるであろう。

 例えば、五輪は理念なくして成立しない、強行開催は自制、延期も柔軟に考慮―など、契約や伝統に縛られ過ぎず、理念を生かす最善の策を臨機応変に工夫する知恵だ。敗北から学ぶことこそが勝利への道であることはスポーツに限らない

さえき としお 1942年東京都生まれ 東京教育大(現筑波大学)大学院修士課程修了。専門はスポーツ社会学。筑波大名誉教授、2012年から現職。

(了)

2021年7月27日の赤旗「意義あり東京五輪」

教員紹介|日本ウェルネススポーツ大学
佐伯年詩雄教授

「スポーツの力が歪められた」

 開会式は偽善があふれたイベントでした。直前まで関係者の不祥事が相次ぎ、ごたごたしました。組織員会にスポーツ庁が協調するガバナンス(統治能力)はまったくありません。それはオリンピックに対する共通理念がないからです。

 もともと東京大会は、経済波及効果と都市改造が目的の招致で、スポーツは二の次でした。無理が通れば道理が引っ込みます。

 だから多くの人が反対しても無理やりやるのです。菅政権は日本がメダルをいっぱいとれば選挙に有利だと思っている。最悪の政治利用です。

 たしかにスポーツは人々の感情を揺り動かします。しかし、それを政権のために利用できると思ったら大間違いです。

 北京大会以来13年間、競技がなかったソフトボールで優勝した日本チームは素晴らしく、拍手を送りたくなります。でもそれは菅首相に拍手しているわけではありません。

 スポーツで得る感動はそんな愚かしい情緒ではありません。国民の受け止めはもっと成熟しています。愚弄(ぐろう)しないでもらいたい。

 そんな露骨な政治利用を、スポーツ団体は否定せずに受け入れています。1980年モスクワ大会では、政治の圧力に押し切られボイコットとなったものの、スポーツ団体は自立した姿勢を持っていました。泣きながら抗議した選手、反対を主張した競技団体がたくさんありました。

 “今回はボイコットじゃないからよい”というものではありません。どんな形でも政治利用には「ノー」と言わなければいけません。政権にあらがうことなく黙々と追従する今日の姿は50年前に戻ってしまったようでとても残念でなりません。

 日本のアスリートは学校や企業に囲い込まれ、市民との接点や交流が少ないため、ものが言いにくいのかもしれません。それでもコロナ禍で多くの国民の反対がありながら大会を押し切ってしまったことをどうとらえたのか。社会の中で自分の価値がどんな意味を持つのか。悩んでいることも含め、アスリート同士で議論し、社会に発信する責任があると思います。

 スポーツには人々の心を動かす力があります。アスリートには、それをどう使うのかが問われているのです。

 五輪一色のメディアの報道もおかしい。コロナの感染拡大で国民が苦しむ中、連日金メダルを大きく取り上げています。しかし、“つらいことは忘れて、しばし夢を見ましょう”でいいのか。そのような現実逃避は真のスポーツの力ではないはずです。

 スポーツはむき出しの闘争ではありません。洗練された競争、たたかいで、相手に敬意を持ち、交流したたえ合うことで友情を友好を育む。それがスポーツの文化なのです。

 人と人が接触を避けたら成立しないものです。しかし、東京大会は友好・親善・交流は一切ダメです。市民はもちろんアスリート同士も。これではオリンピックではなく、スポーツでもありません。

 本来、成り立つ基盤がないにも関わらず無理にやるから、すべてが台無しになってしまうのです。(了)

さえき としお 1942年東京都生まれ 東京教育大(現筑波大学)大学院修士課程修了。専門はスポーツ社会学。筑波大名誉教授、2012年から現職。

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