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2020.04.12
スポーツ・芸術・文化

 日本の女子体育とダンスの深い関係

カルティベータではこれまでシリーズで5回、日本女子体育大学の舞踊学専攻(現在はダンス科)の卒業公演の様子をお伝えしてきました。日本の女子体育とダンスには100年前から深い関係があるのです。女子の体育・スポーツの黎明期のお話です。

女性が体育に出会ったとき

日本の女性のスポーツを考えるときに、女性の立場の変化を考える必要があるでしょう。明治時代、大正時代と、女性たちは家族のために働いてきました。当時は労働を軽減するための機械があったわけではありませんから、大変な肉体労働でした。家事の他にも農村、漁村、炭鉱と、女性たちは肉体労働で仕事をしてきました。嫁として夫の「家」に嫁いだ女性の立場は、姑の手前、自分の自由な時間など持てなかったというのが実情です。余暇という概念は一般女性にはありませんでした。

日本の学校における体育は1872年(明治5年)の学制発布と共に始まります。女子も男子と同様に教育が受けられるようになり、これによって変化が生まれてきました。

明治維新までは、女性は「汚れたもの」として登山は禁止されていました。しかし学制発布後には許可されるようになるなど、女性への見方がこの学制発布で変わってきました。

とはいっても、女子が体を鍛えるということをすんなり受け入れられない人たちも多くいました。小学校でも柔軟体操やダンベル体操が取り入れられるようになりましたが、脚を開いたり腕を上げたりする体操に、女子生徒や両親がなじめず転向させる親も出るほどだったそうです。

当時は体育と言えば体操を意味していました。スウェーデン体操中心の内容だったそうです。しかし、時代の要請で、その後、兵式体操に変わっていってしまいます。

井口阿くりが米国から学んだもの

本格的な女子のスポーツの礎は、「女子の教育」と共にもたらされます。井口阿くり(いのくち あくり 1870年~1931年(明治3年~昭和6年))が初の体育留学生として米国に留学し、スウェーデン式体操と生理学、解剖学、舞踏、教育学などを学びました。ここで注目したいのが、「舞踏」と言う項目が当時の米国の教育カリキュラムの中にしっかりと位置を占めていたことです。

井口阿くり

そして井口が米国で痛切に感じたのが「日本では教育的価値がほとんど認められていない体育が、教育の重要な科目として位置付けられている」ということでした。

明治36年(1903年)に帰国して、現在の御茶ノ水大学である女子高等師範学校に新設された国語体操専修科の主任教授として女子の指導者を育てました。それにしても国語と体操が一緒の科目であるということが今では信じられません。

井口はその後、スウェーデン体操の普及に尽力しただけでなく、バスケットボールを日本に紹介したことでも知られています。さらに、日本の伝統的な着物が身体運動に適さないという理由で、独自のひざ下までのブルマを開発。なるほど・・・昭和の時代、女子が小中学校で履いていたブルマはここからきていたのですね。

二階堂トクヨが受け継いだもの

井口阿くりの指導を受け、その後継者としてあげられるのが、二階堂トクヨです。二階堂トクヨは、後に二階堂体操塾を作り、これが現在の日本女子体育大学となっています。

二階堂トクヨ

実は二階堂トクヨは最初から体育教育に熱心だったわけではありません。宮城県に生まれて、もともとは体操嫌いの文学少女でした。小学時代の8年間に体操の授業を一度も受けたことがありませんでした。また女子高等師範を出て教師となり、最初に赴任した石川県の学校で、校長から本来の国語ではなく、体操を教えてほしいと言われたときに、絶句したと言われています。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」「およそ之れ程くだらないものは天下にあるまい」と酷評していたのです。しかし指導する授業を通して、自らの体調がよくなってくるのを感じて井口阿くりのもとでスウェーデン体操を学びました。

さらに、文部省から命じられて1912年から英国に留学します。女性で体育留学生は井口に次いで2人目です。4年間に及ぶ英国生活で、トクヨは体操教師がとても博識多芸で、女性が体操教師として活躍をしていることに感銘を受けました。特に、ダンスの曲線運動について深く知り、女性の身体運動普及のためにダンスを利用するようになりました。

その流れを汲んで、今でも日本女子体育大学はダンス学科(旧舞踊学専攻)が充実しており、新体操等でオリンピック選手を輩出しているのですね。

帰国後、二階堂トクヨの口癖が「女子体操の指導は女子の手で」になり、ついに、1922年(大正11年)私財をなげうって二階堂体操塾を開くのです。

 二階堂体操塾
女子学生たち

人見絹枝の存在

そうそう、1928年日本女性として初めてオリンピックに出場して800m銀メダルを獲得した人見絹枝は、二階堂体操塾に通っていました。当初はそれほどアスリート養成に積極的ではなかったそうですが、トクヨは女子体育の発展にはアスリート養成が不可欠との思いにいたったそうです。二階堂トクヨ、人見絹枝についてはNHKのドラマ韋駄天にも登場していたのでご存じの方も多いことでしょう。

1928年アムステルダム五輪での
人見絹枝

以上、この5回の日本女子体育大学攻卒業公演シリーズの奥に流れる「女性のスポーツの歴史」をお伝えいたしました。音楽に合わせて身体を動かす舞踏、ダンス、こうしたものが歴史的に女性にとってのスポーツの導入部分に存在していたことがお分かりいただけたのではないでしょうか。

余談

音楽に合わせて踊るのは何も女性だけの特権ではありません。男性だって大好きですよね。こちらの動画は2019年2月にコスタリカで撮影したものです。日曜日の協会のミサの後、皆が広場に集まってダンスを楽しんでいました。人間の楽しみとしてこのダンスが果たしてきた役割はとても大きなものがあったように思います。

今、新型コロナウイルスでなかなか外に出て人と接触できない中、こうしたダンスを観ているだけで心が安らぐのを感じます。

参考資料:「日本女性とスポーツ 明治・大正・昭和から平成へ」WSF Japan

           二階堂トクヨの師マダム・オスターバーク(Madame Bergman Osterberg 生涯とその女子体育思想

筆者紹介 宮嶋泰子

スポーツ文化ジャーナリスト
元テレビ朝日スポーツコメンテーター
(一社)カルティベータ代表理事

テレビ朝日にアナウンサーとして入社後、スポーツキャスターとして仕事をする傍ら、スポーツ中継の実況やリポート、 さらにはニュースステーションや報道ステーションのスポーツディレクター兼リポーターとしてとして自ら企画を制作し続けてきた。
1980年のモスクワ大会から平昌大会までオリンピックの現地取材は19回に上る。

43年間にわたってスポーツを見つめる目は一貫して、勝敗のみにとらわれることなく、 スポーツ社会学の視点をベースとしたスポーツの意味や価値を考え続けるものであった。

2016年には日本オリンピック委員会からの「女性スポーツ賞」を受賞。

1976年モントリオールオリンピック女子バレーボール金メダリストと共にNPOバレーボール・モントリオール会理事として、 日本に定住する難民を対象としたスポーツイベントを10年以上にわたり開催、さらには女性スポーツの勉強会を定期的に行い、 2018年度内閣府男女共同参画特別賞を受賞。

社外の仕事として文部科学省青少年教育審議会スポーツ青少年分科会委員や日本体育協会総合型地域スポーツクラブ育成委員会委員、 日本オリンピック委員会広報部会副部会長、日本障がい者スポーツ協会評議員他、多くの役職を務める。

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